社長の武勇伝 President's Personal history.

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社長のメッセージ
社長に聞け!

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社長の武勇伝

あらすじ

あらすじ

社長のこれまで

社長のこれまで
1968年

神奈川県横須賀市に男3人兄弟の長男坊として生まれる。
兄弟ゲンカは日課となり、生傷が絶えない・・・(お姉ちゃんが欲しかった)
いまだに目の上に弟に蹴られた傷口が残ってたり(--,)

1975年

追浜保育園、白鳩幼稚園を経て、横須賀市立浦郷小学校へ
小さい頃から電車が大好きで、3年生のときに幼馴染と二人だけで
長野へ行ったことがあったっけな、今思えばよく親が行かせてくれたなと思う
電車の写真はアルバム何冊もあった(今どこいったかな?)

不入斗競技場の市総体の走り幅跳び代表(確か6年生)
成長が遅かったせいか、成績もボロボロだったような記憶が・・・
まぁ6年間、いじめたり、いじめられたり・・・今も昔もあんまり変わってないね(^_^;)

1981年

横須賀市立追浜中学校へ
学校一斉の知能テストの結果、学年3本指に入る知能指数だったことのことで
面談時に親が先生から告げられる、120中盤・・・だったかな?
東大生の平均が120だそうだから、まぁまぁか・・・
しばらくは悪知恵にしか使わなかったが(^_^;)
神奈川県だけなのかな?中2でやったア・テストの成績がそこそこ優秀で
域内TOPの高校を狙い始めた・・・そんな矢先

1983年
(14歳)

大事件発生 w(゚o゚)w
父親の転勤で、杜の都仙台へ・・・中3の2学期だよ、おい、わかってるぅ??
彼女とも別れ、仙台市立中山中学校へ転校(T_T)
多感なお年頃、お約束であるかのように不良少年の世界へ

1984年
(15歳)

まぁ成績は横須賀でもまずまずだったので、どこの高校でも入れそうだったが
ようやく出来た友達(悪友)が進学するという仙台育英高校へ
これが間違いの始まりだった・・・

1985年
(16歳)

この仙台育英高校、いまでこそスポーツで名を馳せているが
当時地元一番の悪の巣窟(^_^;)(そんなこといっちゃ悪いか・・・)
自分も御多分に洩れず悪ガキで、停学を繰り返しあっという間に強制退学(T_T)

1985年
(16歳)

仙台市北部を勢力とする暴走族、東日本奥州狂走連合「紫龍会」へ入会(入会金は無料!)
同年、親衛隊長(パトカーから総長を守る役目)を仰せつかり
日々単車ころがしの技術を研鑽・・・
当時は本気で日本一のヤクザになろうと思ってた(^_^;)
(田舎は多いのよ、暴走族・・・みんなで入ろうみたいな・・・)
また、昼間はすることがないので、怪しいチラシを見て行商一団に加入
仕事内容はりんご売り(^o^)!お宅へ飛び込み訪問でむちゃくちゃ売りまくった!
この頃から商売って面白いなぁ・・・と思い始める・・・かなり儲かった

1986年
(17歳)

小金も溜まってきたので、友達の少ない仙台を離れ横須賀へ単身凱旋!
そりゃー親が黙ってないよ・・・なに仕出かすか・・・この悪ガキ
ということで、横須賀でもすることがなかったので、勧めで父親の親友が経営する
ソフトウエア開発会社の入社試験を受けてみることに・・・
これがなんと適性試験TOP合格(^o^)→知能テストみたいなやつ
ただ、17歳じゃぁさすがに雇えない・・・
ということで強く勧められコンピュータの専門学校へ口利き裏口入学(--,)

1987年
(18歳)

ビジネスがしたかったのにぃ・・・と思いながら渋々学校へ・・・
久しぶりの勉強にしばらくは集中していたが、次第につまらなくなり・・・
パチンコ屋漬けの毎日(^_^;)が始まる
パチスロ(当時一号機)を仲間と攻略し、若くしてかなりの年収
中免取り消しの失効期間が19歳近くでようやく解除され車の免許Get!
当時流行っていた「あぶない刑事」で出ていた日産レパードを購入(ガキのくせに)

1988年
(19歳)

裏口入学のため、とりあえず卒業できたりして(^_^;)(関係者の皆様ごめんなさい)
既に入社試験はパスしていたので形式的な面接を経て、待ちに待った「社会人?に」
同年、就職先がちゃんと決まったので、長かった保護観察処分も解除され
晴れて自由の身に・・・この時おふくろから・・・

「おめでとう!佑至
これまで本当に色々あったけど、これからはちゃんと頑張るのよ
今思えば、警察署も家庭裁判所も地方検察庁もあなたをこの世に産まなければ
決して行けない場所だったわ、今思えば貴重な経験をさせてもらってありがとう・・・」

こんな私を育んでくれた、両親、家族、親戚、学校の先生、保護司さん
そして多大なご迷惑をおかけした警察・裁判所関係の皆様

これからは立派な社会人として頑張り、必ずや皆様にご恩返しをさせていただきます

と決意した瞬間であった

1989年
(20歳)

当然、在学中は勉強など微塵もしていなかったので、プログラムなんか作れっこない(^_^;)
一日中画面と向き合い、意味不明なプログラムと格闘・・・
つまんないなぁ・・・辞めちゃおうかなぁ・・・
と、そんな時悪い癖が出て、またまた大事件を引き起こしてしまう(--,)
(ちょっと前に立派な社会人になるって誓ったじゃんか・・・)

使い物にならない私は配属先をたらいまわし・・・
そんな矢先に、新しい配属先の歓迎会(一応やってくれていた)で暴行事件を
起こしてしまった・・・新横浜のカラオケパブで店長と他の客と殴る蹴るの大乱闘・・・
その結果、社長から
「てめぇ、いい加減にしろ!明日から営業だ、お客様、仕事の大切さを骨身に染みてこい!」
と激昂され、新設の機器販売営業部にすぐ配属に(^_^;) 今思えばよく許してくれたな・・・

ん営業?・・・物売りか?(^o^)

おおおおおおぉぉぉぉ まかせとけー りんごならメチャメチャ売ったんじゃい〜
恩返しするぜぇ〜

かくしてこの日から営業マンとして戦いの日々が始まった。

1990〜1992年
(21,2歳)

IBM一次特約店販売部隊(といっても最初は部長と専属SEと私の三人だけ)
最初は売れなかったなぁ・・・当たり前だが
朝から晩まで飛び込み訪問、次の日もそのまた次の日も
営業電話も掛けて掛けて掛けまくった・・・でも売れない・・・りんごなら売れたのに

誰が悪い、会社か?世の中か? いや俺自身だ

それからというもの、毎日毎日猛勉強した、これまでを取り戻すかのように毎日毎日
日経新聞の朝刊、夕刊、休日も定期購読し始めたのがこの頃だ

経済や世の中の仕組みが少しづつ理解でき、ようやくポツリポツリと注文が
取れるようになってきた(^o^)

1992〜1993年
(23,4歳)

その後、素晴らしいお客様に恵まれたこともあり売って売って売りまくった(^o^)
当時400名くらいの社員数で売上高が40億円程度で、
自分の売上が年間3億円(まぁ機器販売だからね・・・(^_^;))
IBMから優秀セールスで表彰されちゃったり
同期の4大卒をぶち抜いて2階級出世など
超問題児だった私が最年少役職者になったことで同期が会社を辞めちゃったりもした

この頃・・・忍び寄るバブル崩壊の影・・・

1994年
(25歳)

折からの不況で、会社が大企業の傘下入り
大変お世話になった社長は経営責任をとり、会社を去った・・・
その後、上司から「おい高橋、今後は大手資本だからお前の経歴だと冷遇されるかもよ・・・」
ほぉーなんなら、これから大学出ましょうか?
学校出てないくらいで処遇が変わるならここにいてもしょうがない

1995年
(26歳)

元IBMの方々などと3名で新会社を設立!辞めた会社も出資してくれた(^-^)
金もないのに資本金をかき集めて、自らも50万円出資!(当時は大金)
が・・・あえなく1年で離散

1996年
(27歳)

インターネットという言葉を少しづつ耳にするようになっていた
インターネットの限りない可能性に惚れ込んで、どうしてもこの世界で
ビジネスがしたい(^o^) でも、金がない・・・
時同じころお世話になっていた私のお客様がソフトウエア開発会社を設立
事業計画を説明したところ・・・

「うちの部門としてならやっていいよ」とのこと

うひゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー嬉しい(*゚ー゚)

頑張ります!

1996年6月2日

株式会社ネットフォレストの前身となる

地域密着型プロバイダー「かもめインターネット」が誕生した

    
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